1933年に武蔵野音楽学校を卒業し、横浜高等女学校で音楽教師をしていて、ポリドールで歌手試験を受け、「最上川小唄」を吹き込みましたが、発売には至りませんでした。結局、音楽学校在学中の指導者、徳山璉の推薦もあり、同年12月にビクターから「海鳴る空」でデビューします。
1934年、夏川静枝の朗読によるハンセン病患者に取材した放送劇「小島の春」のラジオ主題歌「ひとり静」を歌いヒットします。
1936年、「忘れちゃいやヨ」をレコーディングし、歌詞に「ネエ」の部分が観客に大うけするも、時の政府内務省から娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱とされ、ステージでの上演もレコード発売も禁止されてしまいます。結局、歌詞の一部を変更し、歌の題名も「月が鏡であったなら」と変更して発売され、ヒットします。
このヒットに続いて、一種の「ネエ小唄」がブームとなり、「ああそれなのに」「ふんなのないわ」「憎いわね」などが生れます。この状況が、軍部が流行歌を浄化する目的で「国民歌謡」を誕生させる原因となります。
1937年、軍部の指導下で国民歌謡「愛国の花」がヒットします。戦時下の上海などの慰問が始まり、「シナの夜」「広東ブルース」「何日君再来」「いとしあの星」「蘇州夜曲」などを歌うようになります。
戦後、1947年には結婚し、歌手活動の傍ら横浜で花屋を営みながら、「雨のオランダ坂」「東京の夜」などヒット曲を飛ばしました。NHK紅白歌合戦には、通算8回出場しました。晩年は認知症が進行し脳梗塞で倒れたりして、1999年12月31日死去しました。
渡辺はま子の持ち歌には、「ああモンテンルパの夜は更けて」「いつの日君帰る」「シナの夜」「ひとり静」「愛国の花」「雨のオランダ坂」「何日君再来」「蘇州夜曲」「忘れちゃいやヨ」等があります。
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