1961年(昭和36年)2月に再び失明し、その頃から音楽の勉強を始めて「演歌師」として新たな出発をします。以降、岐阜県の奥飛騨・高山地方を中心に演歌師を続けながら、作詞・作曲にも力を注ぎます。
竜鉄也の第二の故郷、奥飛騨温泉郷で作詞・作曲した「奥飛騨慕情」は、250万枚超のミリオンセラーを記録する大ヒットとなり、1981年の第32回NHK紅白歌合戦に出場を果たします。この曲は、竜鉄也最大の持ち歌として、現在もカラオケで歌い続けられるロングセラー曲となっています。
学生時代よりボランティア活動に熱心で、それが彼のライフワークでもあるのですが、全国の慰問活動を続けています。「人生2人3脚」「いのちの灯」のチャリティーレコード収益金の全額を社会福祉に寄与したり、昭和62年1月には「日本視覚障害者音楽協会」の発足に副会長として参加しています。
また、昭和62年7月16日からの「日系人の為の援協日伯有効病院建設チャリティーコンサート・ブラジル公演」では、コンサート収益金とレコード収益金を全て寄付しています。後に、ブラジルサンパウロ市名誉市民「金のカギ」を授与されました。
平成2年のデビュー10周年記念コンサートでの収益金からは、車椅子500台を全国の社会福祉協議会へ寄贈しました。
|